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<title>歴史雑考</title>
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<description>郷土の歴史について徒然書いていきたいと思います。</description>
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<title>九州一周第３回</title>
<description> 第３回　ジャガタラ文　平戸紀行中、最大の読み物は原文通りに全文を翻刻した「ジャガタラ文」の１通である。記者によると、この１通は平戸木引田町の藤川某の所蔵であった。
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<![CDATA[ 第３回　ジャガタラ文<br />　平戸紀行中、最大の読み物は原文通りに全文を翻刻した「ジャガタラ文」の１通である。記者によると、この１通は平戸木引田町の藤川某の所蔵であった。 ]]>
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<dc:subject>郷土歴史</dc:subject>
<dc:date>2009-06-30T14:16:48+09:00</dc:date>
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<title>九州一周第２回</title>
<description> 第２回　筆者の実名　筆者の多加羅生が、自ら実名を明らかにするのは早くも第二回においてである。平戸の名所旧跡を訪ねた後で立ち寄った松浦家の菩提寺雄香寺の住僧鹿児島耕道師は、「筑前二日市町武蔵の出身にて予と少時小学時代の同窓」だった。だが「相見ざる者廿四五年、予には髭生ひ眼鏡さへ懸け居れば定めし人相も変わって居る」に違いないと思った。果たして「白衣の客はいといぶかしげに予を凝視」した。「余は阿志岐の斎
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<![CDATA[ 第２回　筆者の実名<br />　筆者の多加羅生が、自ら実名を明らかにするのは早くも第二回においてである。平戸の名所旧跡を訪ねた後で立ち寄った松浦家の菩提寺雄香寺の住僧鹿児島耕道師は、「筑前二日市町武蔵の出身にて予と少時小学時代の同窓」だった。だが「相見ざる者廿四五年、予には髭生ひ眼鏡さへ懸け居れば定めし人相も変わって居る」に違いないと思った。果たして「白衣の客はいといぶかしげに予を凝視」した。「余は阿志岐の斎田なり。君は湯町の鹿児島君には候はずや」と声掛けると、彼は慌てて「ヤア珍しや」ということになったのである。 ]]>
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<dc:subject>郷土歴史</dc:subject>
<dc:date>2009-01-20T16:01:17+09:00</dc:date>
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<title>斎田耕陽の九州一周紀行</title>
<description> 第１回　明治の末期、福岡日日新聞の記者となった斎田耕陽が「九州一周」の旅に出発したのは明治天皇崩御の２日前、明治４５年７月２８日のことであった。その日の午後博多駅を出発し、肥前有田駅で乗り換え伊万里に到着、同地の写真師陶山俊夫氏方に一泊、翌朝船で平戸に渡った。彼が多加羅生の筆名で「九州一周」の第１報「伊万里から平戸へ」を認めたのはその日の夜、平戸の名刹誓願寺の宿においてであるが、それが福岡日日新聞
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<![CDATA[ 第１回　明治の末期、福岡日日新聞の記者となった斎田耕陽が「九州一周」の旅に出発したのは明治天皇崩御の２日前、明治４５年７月２８日のことであった。その日の午後博多駅を出発し、肥前有田駅で乗り換え伊万里に到着、同地の写真師陶山俊夫氏方に一泊、翌朝船で平戸に渡った。彼が多加羅生の筆名で「九州一周」の第１報「伊万里から平戸へ」を認めたのはその日の夜、平戸の名刹誓願寺の宿においてであるが、それが福岡日日新聞紙上に掲載されたのは大正元年８月２日であった。その間の７月３０日、明治天皇が崩御、紙面はその関係記事で埋め尽くされたからである。 ]]>
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<dc:subject>郷土歴史</dc:subject>
<dc:date>2008-12-19T13:42:39+09:00</dc:date>
<dc:creator>Antares</dc:creator>
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<title>エピローグ　山崎茂右衛門あての書状</title>
<description> エピローグ　　山崎茂右衛門あての書状　山崎家に伝わる播州山崎の城主宇野祐清の2通の文書を手がかりに、天正8年5月山崎城を脱出した祐清の遺児（山崎茂右衛門）とその母の、波乱に満ちた生涯をようやく書き終えることが出来た。　なお、「山崎家文書一巻」を納めた箱の中に「山崎茂右衛門」あての書状が1通残っていたことを第1話で指摘しておいた。まだ解読できていないが、その文中に「鎌田八郎兵衛」の名が見える。鎌田八郎兵
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<![CDATA[ エピローグ　　山崎茂右衛門あての書状<br /><br />　山崎家に伝わる播州山崎の城主宇野祐清の2通の文書を手がかりに、天正8年5月山崎城を脱出した祐清の遺児（山崎茂右衛門）とその母の、波乱に満ちた生涯をようやく書き終えることが出来た。　<br />なお、「山崎家文書一巻」を納めた箱の中に「山崎茂右衛門」あての書状が1通残っていたことを第1話で指摘しておいた。まだ解読できていないが、その文中に「鎌田八郎兵衛」の名が見える。鎌田八郎兵衛は寛文のころ算用奉行をしていた五百石取りの藩士であり（「寛文官禄」）、元禄13年には江戸の天真寺に光之の代参を勤め、宝永４年5月20日光之が没したとき、その法事の実務を担当した光之側近の一人である（「黒田家譜」）。<br />この書状の宛名人山崎茂右衛門は、初代茂右衛門ではなく、宝永5年閏正月18日に没した3代茂右衛門基頼と考えられる。<br />差出人の名を含め、光之死去後の光之側近者の追放事件との関係の有無など、究明すべき問題が残っているように思われる。（05・12・10）　<br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2005-12-10T14:52:48+09:00</dc:date>
<dc:creator>Antares</dc:creator>
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<title>第12話　延宝2年の春</title>
<description> 第十二話　延宝2年の春　黒田忠之が没して光之が3代福岡藩主となったのは、山崎茂右衛門が没した翌年、承応3年（1654）4月22日のことである。それから10年ほど後の分限帳である「寛文官禄」には山崎次郎兵衛の名は見えないが、「御小人中頭」5人のうちに「十二石三人扶持　山崎弥左衛門」の名が見える。御小人中頭がどんな役だったか詳らかでないが、この5人のうちの2人は木村四郎左衛門組に、後の3人は岡藤太夫組に属していた。木
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<![CDATA[ 第十二話　延宝2年の春<br /><br />　黒田忠之が没して光之が3代福岡藩主となったのは、山崎茂右衛門が没した翌年、承応3年（1654）4月22日のことである。それから10年ほど後の分限帳である「寛文官禄」には山崎次郎兵衛の名は見えないが、「御小人中頭」5人のうちに「十二石三人扶持　山崎弥左衛門」の名が見える。御小人中頭がどんな役だったか詳らかでないが、この5人のうちの2人は木村四郎左衛門組に、後の3人は岡藤太夫組に属していた。木村と岡はともに御鎗奉行である。この山崎弥左衛門が次郎兵衛基重と同一人であるか否かは明らかでない。<br />　寛文の次の年号が延宝である。この延宝2年（1672）3月25日、山崎次郎兵衛は253石余の知行を拝領した。父茂右衛門の死から19年目の春である。その文書が「山崎家文書一巻」のなかに現存する。それは知行地が穂波郡徳善村と豆田村にあったことを示す知行目録である。その原文を次に掲げよう。<br /><br />　　　　貴殿知行分平均新高目録<br />田高六拾八石五斗五升　　穂波郡徳善村<br />畠高弐拾五石六斗<br />田高百六拾三石九斗五升　同郡　豆田村<br />畠高五石八斗<br />合田畠高弐百五拾三石九斗者<br />　　　延宝弐年三月廿五日　藤田市左衛門　印<br />　　　　　　　　　　　　　青野　太兵衛　印<br />山崎次郎兵衛殿<br /><br />　次郎兵衛は父茂右衛門の名誉を見事に挽回したということが出来よう。次郎兵衛の没年は、この18年後の元禄3年（1690）である。その年齢は詳らかでない。　　　<br /> ]]>
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<dc:subject>未分類</dc:subject>
<dc:date>2005-12-09T13:28:27+09:00</dc:date>
<dc:creator>Antares</dc:creator>
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